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映画タイトル別一覧

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2009年6月

2009/06/24

愛を読むひと(The Reader)

マイケルが「愛を読むひと」なら、さしずめ観客は「行間を読むひと」か

Reader1  これほど完成度が高く、かつ、評価や理解の難しい映画はないのではないか。

 主人公の気持ちが台詞で全くといっていいほど語られず、感情の露出した場面も少なければ、表情が崩れることも少ない。だから、主人公2人の感情がはっきりと理解できるという構成にはなっていない。次々訪れる出来事に、2人が何を考えたのか、説明はない。あるのは、その出来事を引き起こすことになる原因が、主人公それぞれの「固い意志」によるものであるという事実だけだ。その「固い意志」は、分かりやすく観賞者に示してはもらえない。だから私たち自身もreaderとならざるをえない。まさに、those who read between the lines(行間を読むひと)になることを要求されている。いや、read between the lines ではなく、read behind the lines(隠されたことを読む)といった方が近いかもしれない。難しいのはこのためだ。

 なぜ、30台半ばのハンナが、15歳の坊や(kid)であるマイケルを誘惑したのか。-(1)
 なぜ、法廷でハンナは自分の罪を、むしろ過大に受けることにしたのか。-(2)
 なぜ、マイケルはハンナの隠している秘密を公にして、ハンナの罪を軽減させなかったのか。-(3)
 なぜ、マイケルは再びreaderとなることにしたのか。-(4)
 なぜ、ハンナは自ら命を絶ったのか。-(5)

 いくつもの、「なぜ」が映画を見ながら沸いてくるが、その答えはどれも、行間を、言葉の裏を読み取ることを要求される。難易に多少の差はあるが、台詞では読み取れない。

 でも、だからこそ、この映画の完成度の高さを感じるのだ。ハンナ役のケイト・ウインスレット、マイケル役のデビッド・クロスとレイフ・ファインズ、彼らの演技は、行間を読む好奇心をかき立ててくれるには充分すぎるほどの出来だ。映画を見ながら、何でだろう、どうしてこういう行動になるのだろう、と思いを巡らしつつ、主人公二人の気持ちを理解しようとする。
Reader2  演出としては、前半にはやや露骨なセックスシーンもあり、それで観客の気を引かせておいたのかもしれないが、映画が進むにつれ、そういった類いのキワモノシーンは影を潜め、むしろ坦々と描写しようという姿勢が明確になる。それが、さらに観客の好奇心と探求心を呼び起こす。

 そして、映画を見終わった後から、ふつふつと沸き上がるように、ゆっくりと解け出すように、いくつもあった「なぜ」が見えてくる。映画を見おわってから、数日たった今、私のたどり着いたいくつもの「なぜ」の答えは、これ。

(1)文盲(illiteracy)を隠して生きてきたハンナが、人との接触を極度に嫌うのは自然なことであろう。圧倒的な力関係である「坊や」に対してなら行動できる、というのは、(人付き合いの出来ない男と、幼年の女の子、という風に)男と女の立場を変えた性犯罪が頻繁に起きている事実を考えれば、想像に難くない。
(2)自分が恥ずかしいと思っていること、隠したいと思っていることは、何よりも変え難いもの。その秘密をあばかれるくらいなら死を選ぶ人もいる程。戦時中とはいえ、識字率の高いドイツ(それでも戦後すぐは90数パーセントだったらしい)では、どうしても隠したい秘密であってもおかしくはない。
(3)法廷での彼女の受け答えを見たら、(2)を感じざるを得ない。と同時に、ナチスの残虐な行いに、何の躊躇もなく行動したこと(またはそんな発言)に対する嫌悪感も混ざっていたのかもしれない。それはマイケルがアウシュビッツを1人訪れる場面で、感じられた。
Reader4(4)書物を読むこと、それはすなわち、人間の知性を磨くこと。それを伝え、さらにハンナへの想いを伝えるには、もう一度自分がreaderとなることが、今できること、だったのだろう。そのきっかけが自身の離婚である、というのは納得がいく。
(5)知性を磨いた彼女に、ナチスの元親衛隊という十字架を背負って、一般社会に戻ることはかなりの重荷であろう。頼れる「坊や」は、もう坊やではなく、(1)時代の力関係は完全に崩れている。残された道は、これ、だったのだろう。

 原作では、行間を読まずとも、ハンナとマイケルの気持ちが読み取れるのかも知れない。ぜひ読んでみたい。

 最後に一言。言葉がドイツ語でなかった点が悔やまれる。 

2009/06/07

ナイロビの蜂(The Constant Gardener)

社会派サスペンス+究極の愛

Constantgardener  これは名作の1つに挙げられてもいい映画だろう。

 タイトルにからめて、この映画の良さを語ってみたい。

 まず、邦題「ナイロビの蜂」。これは、この映画で登場する、蜂のマークの製薬会社Three Beesのこと。ケニアでナイロビで、無料で薬などを提供する製薬会社。慈善活動のようにみえるが、その裏では、、、と胡散臭さタップリ。サスペンス、といいながらも、かなり早い段階で、この製薬会社の怪しさがわかってしまう。だから、プロットをどうつなげていくのか、その裏で糸を引いているのが誰なのか、が関心事となっていく。
Constantgardener4 そういう意味では、時間軸をずらしながら進む展開は、事実を浮かび上がらせるのには実に効果的になっていたと言える。妻テッサ(レイチェル・ワイズ)の死の真相を、外交官である夫ジャスティン(レイフ・ファインズ)が探っていく過程と平行して、過去にさかのぼる。一気に事実が解明されるのではなく、まさに1つ1つゆっくりと、真実にかぶされた薄皮を丁寧に一枚一枚剥がすように解き明かされていく。ドラマチックでもなく、あっと驚く展開でもなく。
  薄皮と書いたが、隠された真実を覆っていた皮は実は薄くはなく、テッサの死の真相にたどり着くまで、何重にも被されていた。その1つ、辺境の地で医療奉仕活動に携わる元Three Beesの研究員であり医師のロービアの元に、ジャスティンがたどり着く場面が最大の見どころだ。全ての疑問がその場所で見事に繋がっていく。しかし、1人の男ができることは限られる、、、。ストーリーも演出も非の打ち所がない。
 悲しいことに、不正を公にする手だては、ネタバレしないように書くならば、ジャスティンの最悪のシナリオであった、と言えるかもしれない。しかし、手の込んだ手だてではある。決して迷宮入りにさせない手だて。

Constantgardener5 また、この映画で描かれたように、アフリカ諸国の犠牲のもとに先進国が守られている、という問題提起は、今われわれに突きつけられた問題であろう。医療の研究データは、いわゆる臨床試験によって作られている。不治の病に対する新薬の開発は間違いなく社会正義だろう。その社会正義のためならば、犠牲は仕方がないのか。人の命は同じだ、といいつつ、途上国の人々の命は本当に先進国の命と同等に扱われているのか。おそらく、元研究員ロービアの心的変化も、この問い掛けへの返答だと思われる。そして同時に、われわれもそれにどう答えるのか、投げ掛けられているのだろう。

Constantgardener1  次に原題The Constant Gardener。constant(継続的)に庭の手入れをする人(gardener)。主人公ジャスティンは、趣味が庭いじり、今風に言えばガーデニングが趣味。訪問客に、自分の手入れした庭を案内して喜ぶ男。独身時代に、テッサの自宅の荒れ放題の庭を見て、手を出したくなるほどの庭好き。仕事は決められたことだけ、社会的関心もなし、そんな外交官。その彼が、愛する妻の死の真相を探るにつれ、不正に気付き、妻からの深い愛情を再認識し、社会に目を向ける男に変わっていく。そして、亡き妻のため、妻が取り組んだリサーチを引き継ぎ、妻に愛を捧げる。

 英語版のキャッチコピーは

 Love. At any cost. (愛する。どんな代償を払っても)

Constantgardener2英語版はあくまでも、ラブストーリーなのだ。テッサは、社会正義を求める自分の意志を貫きつつ、愛する夫ジャスティンの外交官という仕事に不利益を被らないように配慮していた。愛するからこそ、話さない。これを理解するのはなかなか難しいことだろう。もちろん、隠し事のない関係は素晴らしいだろう。しかし、愛するからこそ、相手の立場を思いやって行動することも大事だろう。そんな愛の領域に入っていたテッサ、そしてそれを最後にはしっかりと理解できたジャスティン、2人の愛は、まさに「どんな代償を払っても」貫き通した愛なのだろう。

 日本語タイトルから社会派サスペンスを、英語タイトルからラブストーリーを感じられた映画、そして、その両者の絶妙のバランスがこの映画を傑作たらしめたのではないだろうか。

 感動のあまり、ジョン・ル・カルレの原作も読んだ。原作では、独身時代のジャスティンとテッサが惹かれあう過程が描写されている。映画において、唯一欠点と思われるのが、この部分を簡潔にしすぎた点。2時間半の映画にすれば、おそらく描ききれただろうが、そうすると冗長になったかもしれない。製作者のこの選択は、どちらが正しいとは言いきれないだろう。

2009/06/02

ハンティング・パーティ(The Hunting Party)

最後の20分さえなければ、、、

 と書きましたが、決して大どんでん返しがあってぶったまげる、というのではありません。実話に基づいた社会派サスペンス&エンターテーメント作品が、最後の20分で一気にご都合主義になってしまったからなんです。

Huntingparty1  映画のスタートは、内戦のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォ。そこで活動する戦場カメラマン、サイモン・ハント(リチャード・ギア)と、カメラマンのダック(テレンス・ハワード)が、銃撃戦をかいくぐりながら取材をするという、緊迫感あふれる映像。決して片方の従軍カメラマンとして大本営報道をするのではない、正真正銘の報道マンの姿。そのような活動をした多くの報道マンたちが戦場で命を落としたことを考えざるを得ませんでした。一気に映画に引き込まれましたよ。
 サイモンがテレビ局をクビになる原因となった生番組でのレポート場面。彼は単なる直情型の報道マンなのか、と思いきや、後でその理由が明かされる、という考えられたプロット。また、戦争犯罪人を自分たちの手で探し出してインタビューする(実はサイモンはもっと凄いことを考えたいたのだが)、という、まさにスクープをものにしようという記者魂。それに心を揺さぶられ、協力することになるダックの心意気。現地の情報を収集するには、「まず酒場へ行く」というのには、笑いとともに「なるほど」とも唸らされた。記者は足で取材する、それを地で行くストーリー。
 途中、記者だ、と名乗っているにも関わらず、勝手にCIAと間違われ、そのまま否定もしないでどんどん突き進むあたりは、これが事実であるという驚きとも相まって、面白くてたまりません。このあたりは、本当に時間を忘れて見入ってしまう展開でした。
 前半は事実を元に組み立てたというプロットだけに、真実味溢れていたんですが、、、。

 ちょっと、あれっ、って思い始めたのが、彼らが戦犯のグループにホテルで拉致されるあたりから。ひっそりと隠れて行動している彼らが、そんな行動的になるのか、と疑問がわき始めてから、楽しさが減ってきました。

 あとで調べたら、やはりこのあたりからは事実とは違い、映画オリジナルのストーリーのようでした。やっぱり、、、。

 しかし、(NATO?の)特殊部隊に助けられた(実際は、彼らに「CIAを名乗った虚偽罪」で捕まったのですが)時の、隊長の台詞は面白かったですね。その台詞は事実みたいです。曰く、「CIAには君たちを救い出したLight Side(暗躍する部署)と、われわれのように表に出るDark Side(公式な部署)がある。もう1つGrey Zone(中間)というものがある。それは君たちのように(活動している)」これは、ある意味スクープじゃないですか。

 そして、問題のラスト20分は、、、、、、。そりゃないでしょ、そんないとも簡単にそうなるなんて、、、。

Huntingparty2  ここで、タイトルHunting party(狩猟する一団)の意味が、サイモンたちの集団たちのことだけではないと分かってくるわけですが、それにしても、、、、、。映画オリジナルのエンディングだそうですが、先の特殊部隊の所で充分面白い映画になっていると思うんですが、そう思うのは私だけでしょうか。せっかくの。「実話を元にした」というのが色あせてしまいます。(これ以上のネタバレはやめておきます。)

 ところで、この話、ジャーナリストのScott Anderson氏がEsquire誌に載せた記事What I Did on My Summer Vacation(私が夏休みにやったこと)が元だそうです。その記事を読んだのですが、これがまた面白い。映画よりも面白い。映画では3人ですが、実際は5人のジャーナリストで本当に戦争犯罪人の捜索とインタビューを目指したとのことです。で、最後のオチが、先の特殊部隊の隊長の話、なのです。ね、それだけでも充分面白いでしょ。諜報活動は、他人と偽って行動するグレーの部分がある、と暗に認めたんだから。

 ちなみに、記事のネタ、というのは英語でstoryって言うんですね。storyか、1つのまとまったお話、なのか、と妙な所でも感心したり、と興味深く観賞できました。少なくとも、ラスト20分までは。
 でも、エンドクレジットでの事実紹介は愉快でした。

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