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映画タイトル別一覧

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    外部HPに、当ブログの映画レビューの記事「映画タイトル別一覧」を作りました。

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2009年5月

2009/05/31

消されたヘッドライン(The State Of Play)

取材現場の進行状況はこんなんだろう

Stateofplay  イギリスBBCのドラマ「ステート・オブ・プレイ〜陰謀の構図〜」のリメイク版であるこの映画、ジャーナリズムと権力、巨大資本がからんだ社会派サスペンス、ということで、ドラマ未見(08年に日本でもBSで放送されたらしい・・・BSないので知らなかった)で見に行きました。「ラスト・キング・オブ・スコットランド」の監督(ケビン・マクドナルド)、ラッセル・クロウ主演にヘレン・ミレンも出演している、ということでかなりの期待を抱きつつ。

 麻薬取引に関わると思われる殺人事件と、国会議員の秘書(スタッフ)の転落事故、この2つの事件がどう繋がっていくのか、それをどのように解明していくのか、がこの映画の見どころでしょう。これに関しては、予想以上の出来だと感じました。テレビドラマや小説なら、時間をかけてゆっくりと謎解きをしていくのでしょうが、映画では時間はかけられません。そこを、新聞記者のカル(ラッセル・クロウ)を中心とした新聞社のスタッフたちが駆けずり回る、電話をかけまくる、という映像を挟むことで時間の経過を上手く表せていたと思います。よくありがちな、「最初に気がつき、取材したら図星」という安易さはなく、新米新聞記者デラ(レイチェル・マクアダムス)が無駄足を運ぶ場面がちゃんと入っている点にリアリティを感じました。デラのまっすぐで、怖い物知らずの行動振り、カッコいいですね。憧れます。若い頃はあれぐらい突っ走ったものだなあ、と昔の自分を懐かしく思いました。(あ、私新聞記者じゃないですけどね)
Stateofplay3  また、カルが日常の取材で警察の内部に仲の良い人物をしっかり作っている、という手管はさすがですね。ネット社会になり、デスクに座ってインターネットやデータベースを探るのは取材ではなく、「取材は足で」を地で行っています。そして生身の人間とつながる。ネット社会の今、私たちが忘れかけていることですよね。

 カルが大学時代の友人のスティーブン・コリンズ議員(ベン・アフレック)に妙に肩入れするのが、最初はどうも解せなかったのですが、その理由が単に旧友だからと言うわけではないのが徐々に見えてきたのは上手い演出でした。そこは、スティーブンの妻アン(ロビン・ライト・ペン)の演技力が光っています。難しい役柄だと思いますよ。
Stateofplay2  逆に、スティーブンの心境と言うものが、今いち掴みきれないと感じました。こいつ、何考えてんだ、分からんなあ、と観賞中ずっと考えていたんですが、これは演出上の作戦だったんですね。ミステリーに包まれた感じにしておく、という演出。それがエンディングのどんでん返しに繋がると考えると、納得できます。無理のない人物設定でしょう。

 タイトルThe State Of Playとは、イギリスの国民的スポーツ「クリケット」用語で、試合の進行状況、だそうです。クリケットのごとく、ジャーナリズム側と政治・資本側の対決の、試合進行状況、なのでしょう。そういう意味では、テレビドラマのサブ邦題「陰謀の構図」は的確なタイトルだと思います。が、映画のこの邦題は、ちょっとどうかな、と感じます。「消されたヘッドライン」は、オチのネタバレのようなタイトルではないでしょうか。「最後に新聞のヘッドライン(記事の見出しタイトル)が圧力で消されてしまいますよ」と言っているようなもの。私も、そうなるんだろうな、と思って見てました。ところが、消された、のではなく、書き換えた、のが正解なんですね。一本取られた、というより、タイトル違うだろ、と突っ込みたくなりました。いずれにしろ、興味を半減させ、誤解を招く邦題のような気がします。

 エンディングのどんでん返しの批判が他の方のレビューで多く見られます。そのエンディングについてですが、それがなくても映画としてはまとまったと思いますし、観賞後感の良い映画になったかもしれません。ただ、「自分の打った手が、時には想定以上の結末を迎えるんだ」という教訓を私たちに与えてくれる、という意味では、このエンディングも悪くない、と思います。また、「大きなことは、ほんの些細なことで決まる」不条理さは、現実でもあります。ストーリーの辻褄さえあっていれば、いいじゃないでしょうか。観賞後に、辻褄の合わない箇所を一生懸命探してみましたが、それはないようですね。どこかに結末を「ほのめかす」ような場面があってもよかったのかもしれません。そうすればもっと多くの人が納得したんではないでしょうか。

Stateofplay1 カルの上司で編集長を演じたヘレン・ミレンの迫力は、全ての出演者総掛かりでも及びませんね。売れる新聞を作らなければならない責任者としての迫力、私が部下だったらもう何も言い返せません。

 英語で、記事の「ネタ」をstoryと言うんですね。刑事が、This is not a story.  It's a case.(これは、ネタじゃない。事件なんだ)と言う台詞にも唸らされました。

 最後に、一言。ジャーナリストたちが高い評価をしているそうなので、これはジャーナリズムの現場の真実に近いんでしょうね。売れるネタ・ゴシップを掲載する姿勢と、真相を追究し権力を糾弾する姿勢。この両方をどのように天秤かけるのか、日々現場では自問自答しているんでしょうね。片一方に偏れない現実。そのことがよくわかった映画でした。

2009/05/23

つぐない(Atonement)

こういう、罪の償い方があるのか、と感動

Atonement  atonement、その語ズバリ「つぐない」と訳された邦題のこの映画。贖罪(しょくざい)、すなわち、罪を償うこと。
 誰がどんな罪を犯したのか。それは、映画を見る前からはっきりしている。主人公の少女ブライオニー(シアーシャ・ローナン)。姉セシリア(キーラ・ナイトレイ)と、2人の家に使用人として働く男ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)の恋を、1つの嘘によって引き裂いたのが、罪。
 ならば、あとの興味は、なぜ、彼女は罪を犯したのか、そして何より、その罪をどのように償うのか、がこの映画の見どころとなる。テーマはそこにある。

 その、償うための行動方法は、私たちの予想を覆す程のもの。それが明らかになるのは、映画のラスト、作家となり年老いてペンをおくことにしたブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)の告白。「正直に話すことが真実。この映画こそが私の罪の償いである。」と彼女は語る。この場合の真実とは、実際に起こったこと、という意味ではない。実際に自分が感じたこと、思ったこと、そして、伝えるべきであったこと、を語る、という意味だ。
Atonement2  その場面まで、見ているものは完全に騙される。そして、その騙され方に、感動する。こういう、罪の償い方があるのか、と。決してハッピーエンドではない、むしろ悲しい結末であるがゆえ、この映画のテーマを際立たせ、感動を与えてくれる。見事だ。

 時間軸をずらし、映画を見ている者に事実を伝えるタイミングをずらす方法。時には、映画のまどろっこしさ、また、難解さを与えるこの手法も、この映画に限ってはブライオニー視点に観客を引き込む効果的な方法となっている。そこに、なぜ彼女は罪を犯したか、が隠されている。
 ブライオニーが目撃した、セシリアとロビーの間に起きる噴水の前での出来事も、ブライオニー視点で最初は紹介される。しかし、事実はしばらくたってから、私たちに明かされる。この間、私たちはブライオニーに心的に同化していく。罪の意識を与えられるようなものだ。お前だって、そう思うだろ、そんな罪を犯してもおかしくないだろ、と意識付けられてしまう。
Atonement1 幼い頃、卑猥なことば、性的な言葉に異様に敏感になる時期があったのは、誰しも経験があるだろう。ブライオニーには、女性器を表すことば(cunt)はあまりに衝撃的であったろう。セクシュアルな場面を目撃する、それも2度も目撃したのも衝撃を越え、嘘をつくと言う罪を犯すのも頷けよう。それゆえ、2度目の目撃場面(いとこが襲われた場面)の事実が後で明かされた時、きっとその時は事実を本人自身も気付いていなかったのだろう、と思える。嘘をついた、というより、そう思い込んだ、思いたかった、というのではないだろうか。
 映画の最後で、ブライオニーとロビーの、庭の池でのエピソードが紹介される。このエピソードがもし、前半に挿入されていたら、私たちの受ける印象はかなり変わるだろう。ブライオニーの抱いた淡い恋心がよく現れたこの場面。なぜ、彼女がロビーからセシリアに託された手紙を開けてしまうのか、その理由がはっきりする。何となく分かっていたことが、最後にはっきりする。おぼろげに感じていたことが、明確になって映画のラストを迎えるのは、たとえ悲しい結末であろうとも、観賞後感はよくなるものだ。

 また、この映画の特徴は、台詞のない映像の時の、効果音の使い方だろう。
 タイプライターが、パチパチと音を立てる。主人公の少女ブライオニーが、足早にパタパタと音をたてて歩く。この2つの音が映画スタートから妙に印象的だ。ブライオニーとタイプライターと足音、これは、その後も何度も効果的に現れる。それは、早とちりに、一方的に物事を思い込んでしまう、というブライオニーの性格を表している。
Atonement3  ブライオニーが、セシリアとロビーの間に起きる噴水の前での出来事を、2階の窓から眺める場面。台詞は一切ない。ただ、ハチが羽根を震わす音、窓にトントンと当たる音だけが、響く。

 なぜ、と、どのように。罪の理由とその償い方を、台詞だけでなく、映像や音も含めてこれほどまでに巧みに演出したこの作品、名作の1つとして語られるに値するものだと、私は思う。

2009/05/15

天使と悪魔(Angels And Demons)

宗教謎解きをもっと楽しみたかった

Angelsdemons1  この映画のレビューで、ネタバレを書くことは、映画ファンの道義に反するだろう。だから、ネタバレしないように、注意して書くことにする。
 さて、この映画、ミステリーとしての命綱であるプロットはよく練られていて、結末に至る展開も二転三転し、二時間半、最初から最後まで息もつかせない。それでいて、「ダ・ビンチ・コード」とは違い、宗教の知識が少なくても充分にストーリーを理解できる脚本となっている。謎解きも、殺人犯を追うカーアクションも、殺人事件の見せ方も、犯人との対峙も、バチカン爆破を止める奇想天外な方法も、そしてお決まりの内通者やどんでん返しもある。ないのは、ロマンス、逃亡ぐらいだろうか。考えられる全てのエンタテーメント性が詰まった映画だろう。純粋に、そして、知的に映画を楽しめる映画であることは間違いない。
Angelsdemons3  宗教的知識がなくても、と書いたが、カトリックにおける教皇選挙(コンクラーベ)を始めとした宗教行事についての説明が、映像と台詞で巧みになされているため、非常に分かりやすくなっているからだろう。これなら、教皇が亡くなる、新教皇が決まる儀式(会議)、その時間軸の中での、新教皇候補の誘拐、救出、と続くストーリーに、観客は置いてけぼりになることはない。
 また、宗教と科学の対立、という分かりやすい敵対構造や、過去における弾圧と現代における復讐という図式も、単純すぎるきらいはあるが、エンタテーメントの面では理解しやすい。「ダ・ビンチ・コード」では、カトリック総本山であるバチカンが痛烈に批判したが、この映画には宗教的に無害、と判断したのも頷ける。もちろん、「ダ・ビンチ・コード」でのカトリックは、自身を守る保守性と対立する者への攻撃性の象徴のように描かれていたのだから、批判したのだけれど。ダン・ブラウンの著書としては、「天使と悪魔」が先、「ダ・ビンチ・コード」が後である、というのは、より宗教面に深く踏み込むという著者の思惑があったのだろう。

 ここまで書くと、前作より楽しめる映画になった、と思われるかもしれない。確かに、多くの人にとっては、楽しめる。それは間違いない。
 でも、中には、宗教や芸術のうんちくを楽しみたいと思う人もいるだろう。私もその1人なのだが、秘密結社(イルミナティ)の存在、バチカン市内の教会の彫像を利用したラングドン教授の謎解きは、今回も興味をそそられた。そんな人にとっては、先に述べた対立構造の単純化や、前半に布石のない結末のどんでん返しには、知的好奇心をくすぐられない。観客を驚かすためだけに用意された結末の様な気がしてならない。犯人の動機も分かり難いままだ。むしろ、第一幕(見た方なら、この表現で分かると思うが)で終わってくれた方が、スッキリした気分になっただろう、少なくとも私にとっては。
 科学の生み出した新エネルギー物質である「反物質」(anti-matterとか言っていたが)も、新規の核エネルギーのようにも見え、それが「科学の英知」とも思えない。それこそ、「人間が自分を神とみなした行為」のようである。それ程の驚異的な科学の発明が、いともあっさりと盗まれるのも、どうかと思う。これはつまり、科学と宗教、と言う対立軸を強調するためだけの素材であった、ともとれる。

Angelsdemons2  最後に、カメルレンゴとコンクラーベについて記す。
 カメルレンゴとは、教皇事務局の長官の称号であり、名前ではない。
 コンクラーベとは、ラテン語で「鍵とともに」という意味だそうだ。映画の所々で、様々な鍵を見る。教皇選出の会議をする部屋に鍵をかける。現代における鍵は、デジタルコードであり、人体認証であったりする。科学であろうと、宗教であろうと、そこへの出入りにはすべて鍵が、文字通り「鍵」となっているのだろう。

2009/05/10

ラスベガスをぶっつぶせ(21:Twenty-one)

つまり、確率の問題なんですよ、ギャンブルって。

Twentyone  個人的には全くギャンブルに興味のない私です。ギャンブルは確率の問題なんですよね。その確率で行けば、必ず胴元が儲かる仕組みになっているんですよね。だから私は好きではないんです。そんな人間がこの映画に興味を持つとは、到底考えられないんですが、聞く所によると、ブラックジャックにおいて、カードカウンティングを使った確実に儲かる方法の話、とのこと。どうやって、ギャンブル、中でもカジノと言う場でどうやって勝つのか、そこにだけ注目して見ました。DVDにて観賞。

 まず、そのカードカウンティング。台詞の聞き取りや字幕読み取りにはそれなりに自信のある私ですが、正直言って1回見ただけではその方法はよくつかめなかったんです。説明の箇所はDVDで止めて、もう1回見ました。映画館ではそんなことできないので、映画館で見たら消化不良気味になったでしょうね。
Twentyone1  要は、カードの枚数は52枚と決まっている(実際のカジノは52枚×4セットぐらいで行われているそうですね)ので、大きい数字(10になる絵札、とエース)が出たら−1、6〜9中の数字なら0、小さい数字なら+1として、カードが見えると瞬時に数えていく、とうこと。プラスが大きくなれば、そろそろ大きな数字が出る確率が高くなり、同時にdealer(親)が21を越える確率が高くなり(親は3枚目を引かなければならないから)、勝つ確率が高まる、ということなんですね。逆にマイナスが増えれば、次は小さなカードが出る確率が高くなり、dealerのチャンスになるわけです。
 このことが理解できないと、この映画の面白さは半減します。だって、なんで勝てるってわかるの?と疑問符だらけで、ストーリーを楽しむなんて出来ませんよね。ブラックジャックに精通していない人には分かりにくい映画でしょう。中東を描いた映画で、国家間の対立関係がわからないまま観賞するのと同じ、です。そこを、サクッと簡潔に、わかりやすく説明できるかどうか、が万人受けするかどうかの分かれ目かな。そう言う点では、ちょっとマイナスポイント、ブラックジャックではじめに絵札がたくさん出ちゃった感じ、ですね。

Twentyone2 その、カードカウンティングが理解できたら、ストーリーはスリリングで、エンタテーメント性高いです。ケビン・スペーシー演じる怪しげな教授の素性も、エキサイティングでミステリアスだし、主人公ベン(ジム・スタージェス)の頭脳明晰さもサマになっているし、ロボット作り仲間のオタクっぽさも理系学生によくある雰囲気だし、面白い設定です。
 ただ惜しむらくは、ベンのカード仲間がそれほどセンス豊か、頭脳明晰っぽく見えない、ちょっと粗削りすぎるきらいがあった様な気がします。演技が悪い、キャスティングが悪い、といのではなく、人物設定に無理があるようなきがします。もっと、マニアックな、ちょっと神経過敏気味のメンバーであってもよいのかな、と。あまりに明るすぎる、ような、、、、。
Twentyone3  エンディングのどんでん返しは(ネタバレしないように書きますが)、後味は悪くないですが、ちょっとひねり過ぎのような気もします。カジノの番人役ローレンス・フィッツバーンがいい味出していたので、彼の謎めいた動きをもう数ショット入れることで、エンディングへの布石にすれば、強引さは薄れたのになあ、と感じました。

 カードカウンティングだけでも、事前に理解して見れば、多少の強引さも、帳じり合わせも楽しめるのかもしれません。

 やっぱり、ギャンブルは確率の問題です。ギャンブルは、いったん儲かったらさらにエスカレートする、失敗したら次に大きい手で逆転しようとする、ものですね。人の心を狂わすもの、なんでしょう。確率的にも、統計的にもそうなるんでしょうね。そのことがよーくわかった映画でした。

2009/05/07

グラン・トリノ(Gran Torino)

人種間対立と偏見を前にして

Grantorino5  イーストウッド主演にして監督をする作品としては最後、と自身が公言している映画。映画のテーマを絞り、全ての映画内の出来事をテーマに関連させる、イーストウッド節全開の映画と言っていいだろう。
 そのテーマとは、アメリカにおける人種的偏見。アジア系、ヒスパニック、アフリカ系、といった被差別民族どうしの対立、アングロサクソンとひとまとめにしても、その中での細かなルーツの違いをも題材にしている。

Grantorino3_2  アジア系と言っても、多数派の中国系、韓国系ではなく、ラオスの少数民族を取り上げたあたりは、イーストウッド独特のセンスなんだろう。まだアメリカ国内にて1つのコミュニティを形成しているとは言えない少数民族。イーストウッド演じるカトリック系&ポーランド系アメリカ人がまさに眉唾で彼らを見つめるのは、偏見と言うよりもむしろ無知に近いのかもしれない。偏見は、相手のことを知らないこと=無知から始まるものなのだ。知らない、理解できないことに対しては、防御線を張る。それが、「自分たちとは違う」というレッテル貼りになり、相いれないという差別、隔離と繋がる。差別を受けたものは集まり、固まり、独自のコミュニティを形成しはじめる。そして、別のコミュニティとの対立、諍いとなる。ヒスパニック系と対立するアジア系、さらにアフリカ系との対立まで映画では垣間見える。この社会構造が、イーストウッドの問題提起である。
 つまり、この社会構造の根っこは、支配層に属するアングロサクソン系の姿勢にある、ということなのだ。

 ならば、その社会構造をどう解決するのか。
Grantorino1  それは、一人ひとりの心が変わること。そのきっかけは、ほんのちょっとの交流だけなのだ、ということ。
 偏見の塊イーストウッド演じる主人公ウオルトが変わるきっかけは、自分の庭に入ってきた悪党を追っ払おうとしたことが、隣家のアジア系家族を助けたことに、はからずしもなったという偶然。ほんのちょっとずつの交流から、彼が徐々に偏見を取り除いていく。朝鮮戦争での忘れられない過去をずっと引きずっていたウオルトが、罪の贖罪をどうとるのか、と言う点も絡めながらストーリーは進む。このあたりの展開は、イーストウッドならでは、綿密な描写が続く。

Grantorino4 そして、贖罪とアジア系の若者タオを救う最後の手段のエンディングへ。
 人を殺したこと、一時も忘れたことはない、というウオルトの台詞が全てであろう。決して殺してはいけない、そのヒューマニズム溢れた行動に涙が止まらない。牧師には決してその心情を語らなかったのは、弱音を見せたくない彼の美学だったのかもしれない。

Grantorino3  やはり彼の作品らしく、エンディングには、少しの異論が出ているようだ。曰く、いわゆるアングロサクソンに属する主人公がとる手段としては、必ずしも理に適った、まっとうな方法ではないということ。それは、今まで決して後味の良い作品ばかり残してきたわけではないイーストウッド独自の世界観、美学がある。理に適う、のではなく、あくまで主人公の内的要因(心情)を貫き通すことを優先したからなのだろう。
 ただ、それに続く、名車グラントリノの行く末は、イーストウッド作品にしては至極まっとうな結末であった。前作「チェンジリング」と同様、希望を残す幕切れとでも言えようか。湖の畔を走り抜けるグラントリノ、その通り抜けた道をずっと映し出す映像に余韻を感じながら、映画間を去った人も多いのではないか。予測された結末は、ある意味感動を深く心に残すものなのだ。イーストウッドも自身最後主演の映画で、こういう選択をしたのは、人間味があってとてもいい。

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 最後のシーンで流れる歌「グラン・トリノ」の訳詞をご覧になりたい方は、下記のサイトで。

洋楽訳詞ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/hotel_zihuatanejo/28010844.html

2009/05/04

バーン・アフター・リーディング(Burn After Reading)

評判悪いようですが、皮肉たっぷりのジョークに笑えないのは、自分を見ているようだから?!

331863_01_07_02  やたら星1つの低い評価のレビューが目立ちます 。「宣伝に騙された」とか「コメディーじゃない1」って怒っている人たちが多いねえ。その怒り、わからないでもないけれど、だからといって星1つじゃあ、ブラピもクルーニーも、怒っちゃうんじゃないかな。それこそ、ティルダ・スイントンに「その口開けないと、閉じこめちゃうよ」とキレられるか、マルコビッチにF*ck連発暴言を叩かれちゃうぞ。

 だいたいさあ、コーエン兄弟の作品なんだよ。アカデミー賞の「ノーカントリー」だってやたら無意味に人が殺されていくんだよ、「ファーゴ」なんて残酷で後味悪い作品だよ、コメディの「オーブラザー」なんてオチの所で大洪水、アーッハッハって笑って終わりだよ。この作品だって、後味良いわけない、最後のオチは強引になるはずだよ。
 コーエン兄弟の作品を見ていなくて、この映画見るのは、純文学作品好きの人がアクション映画を、ラブストーリー好きがサスペンスを見るようなもので、もともと畑が違うんですよ。私は決して「レッドクリフ」も「クローズゼロ」も見に行きませんから。星1つつけちゃうよ。

 「コメディじゃない」と言う人。これ、やっぱりコメディなんですよ。ただ、ガハハと笑えるコメディじゃあない。素直に、気持ち良く笑えはしない。言って見れば、小心者を見て、小ばかにする笑い。登場人物に、何か心当たりがある、どこか自分と重なって見えるのが、素直に笑えない点。

331863_01_01_02 ブラピが恐喝、じゃないよ。最初は落とし物を拾って。謝礼をもらおうとしただけなのに、電話口で相手の名前ばかり言ってるから、恐喝者になっちゃったんじゃない。「善意のサマリア人」と名乗ったでしょ。善意のサマリア人とは、聖書に書かれている、自分の不利益を顧みず人助けをする人のこと。秘密書類をなくして困っている人と、手術代の捻出に困っている人、両方を助けようと、自分の不利益顧みず行動したら、ああなっちゃったんですよ。悲しいねえ。でも笑うしかないんじゃない、「バカだなあ、、」と。

331863_01_09_02  ジョージクルーニー、セックスしたらすぐその後ランニング、ってバッカじゃない!笑う、というかあきれるよね。身体鍛えるのは、セックスのためかい、って笑えましたよ。健康のため、ってトレーニングしている人、本当は自分の体形を異性によく見せたい、とか思っているからなんじゃない、と見透かされているみたい。思い当たらない? そうだったら、笑うしかないでしょ。
 連邦捜査官、とか言って、銃を持ち歩いているけど、一度も撃ったことがない、って。だから、その時になったら「反射的に引き金を引いてしまうかもしれない」って、それヤバイでしょ。そんなこと言ってるから(思ってるから)、ヘマしでかすんだよ。小心者の極みですよ。笑えないけど、ジョークそのものです。

331863_01_04_02  マルコビッチの元CIA調査官、Drinking problem(飲酒問題)と言われて、キレていましたが、そのままですね。上司の説明は正しい、だから、笑えました。で、何より、自分がしていた仕事が大層な仕事だと思っていたら、実は重要度では大したことなかった、なんて上司に(影で)言われていますから、可笑しいんだけど、哀れですね。何か自分の仕事振りを言われているような気分になりました。暴露本、といいても、ちっとも暴露になっていない、ロシアも喜ばない、んですよ。これそ、「乾いた笑い」とでも言いましょうか。

331863_01_02_02  リチャード・ジェンキンス演じるブラピとマクドーマンドの上司、彼が一番哀れかも。最も常識的な男かと思ったけど、最後に狂っちゃうんですよね。やめときゃいいのに。好きな女に言われると、無理しちゃうんでしょうかね、、、。彼だけは、笑えなかったなあ。

 女性陣にはコメント控えます。でも、女3人が自ら笑ってお話は終わり、「観客じゃなく出演者が笑うのかい」、とツッコミいれましたよ。笑う場面は出来てきませんが、明らかに笑っていますよ、画面の外で。それが分かるからまた笑えるんです。

 最大のジョークは、タイトル。Burn After Readingは「読んだら廃棄せよ」で、スパイの鉄則。この事件を全て観察し調査したCIAが、そのレポートをパタンと閉じた時点で、「読んだら廃棄」なんですよ。国家権力にとって、市民のこの程度(死者が出ようと)の事件は、調査して結論でたら、終わり、廃棄処分、なんですよ。ブラックジョークもここまでくると、快感です。で、エンドクレジットと共に流れる歌がF*cking a man, CIA man!だなんて、爆笑でした。権力に痛烈パンチ。日本じゃこんな映画作れないでしょ。最高のオチですよ。

(この歌の訳詞はこちら

 星5つに値する程の名作、というより、星4つくらいの皮肉たっぷりのコメディなんですが、他の人の評価がちょっと低すぎるので、オマケの星5つにしました。

 最後に、もう1つ。ブラピが「ブラック」って嘘の名を騙ったでしょ。ジョー・ブラックじゃん。バカ顔して、「ブラック」って言った瞬間、笑いましたよ。ブラピ自身も笑ったんじゃないかな。

2009/05/03

4月は映画に行けなかった、、、

4月は結局「スラムドッグ$ミリオネア」しか観に行けませんでした。「ミルク」も、「ワルキューレ」も、「フロスト&ニクソン」も見逃してしまいました、、、。5月にはいり、少し余裕が出てきて、このGWには、「バーン・アフター・リーディング」「グラン・トリノ」と立て続けに観賞しました。3月にDVDで見た「つぐない」「ラスベガスをぶっつぶせ」もレビューを書いていないので、5月は映画レビュー・マンスにしたいと思っています。

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