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映画タイトル別一覧

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2009年2月

2009/02/28

ベンジャミン・バトン 数奇な人生(The Curious Case of Benjamin Button)

「おくりびと」ベンジャミン&デイジー・・・ベンジャミンの数奇さと、デイジーの数奇さ

Benjaminbutton2  ベンジャミンの人生は、絶対にあり得ない話だ。だから、こんな話、子ども騙しだからバツなのか。
 ならば、逆にリアリティがあればマルなのか。

 否、である。
 是ならば、全てのタイムマシンストーリーはバツになるし、ドキュメンタリーや実話を元にした映画は全てマルになる。そんなことはない筈だ。だから、否、であると断言できる。
 映画はニュースではない。表現なのだ。どんな題材を用いて、何を表現するのか、それこそが映画に何を求められるものなのだ。ならば、何が表現されているか、を考えないと、映画の評価には当たらない。
 そういう視点で考えてみたい。

 ベンジャミンの人生はあり得ない話だ。タイムマシンではなく、自身が徐々に若返っていく、という設定。「数奇」というより、超自然、だ。あり得ない設定をあえて作ることで、「人生とはどういうものなのか、どのように構築されるものなのか」、そして、「人生の中で、どのように人の死を見届けるか」を伝えようとしている。そして、それは見事に表現されている、と思う。

Benjaminbutton3  ベンジャミンが人生を日記調で説明する中盤以降までのストーリー。老人で生まれる、という数奇な生を授かり、老人介護施設で育てられることから、否応なしに「死」を目の当たりにする。外見が老人であるため、施設の中で浮いた存在にならず、むしろ彼の目が第三者的となって、世の中を見ていく。
 毎朝、旗を掲げる元軍人。毎朝、オペラを歌う元歌手。彼にピアノを教えた女性。出会った人たちの死を目にしていく。
そうした「死」に対して、感情よりも叙述的要素が多い語り口。

 しかし、社会に出てマイク船長に出会い、そして彼の死を見届けたことで、叙述調から情感のこもった語り口に変わる。失うことの悲しみを、肌で感じ取ることとなる。アボット夫人との出会いと別れも、死ではなくとも、失うことの悲しみを体感することになる。そして、本当の父親の死、育ての母の死も、見とどける。様々な思いが交錯していく。

 また、死の見つめ方だけでなく、人生の操、もしくは、幸運と不運の人生分岐点を考えさせる映画でもあったと思う。
 映画の冒頭の、針を逆まわりさせた時計職人のエピソードと、デイジーがパリで交通事故に遭うエピソード。どちらも、「もし過去に戻れたら」ではなく、「時間が後戻りしたら」の視点である。タイムマシンのように戻るのではなく、徐々に逆回転させて、止める、やり直す、ことを夢見る。それは、人生をやり直すのではなく、どこで人生のボタンを掛け違えたのか、を探す旅なのだ。

  「俺は7回も雷に打たれた」と語る老人。実際、そういう人が実在したらしいが、それもまた数奇。本当の父親トーマス・バトンの経営する「バトンのボタン(Button's Button)」。何度も挟み込まれるこの2つのエピソードも、人生の操を感じさせてくれる。

Benjaminbutton1  ベンジャミンの人生に深く関わってきたデイジーの人生もまた数奇。愛すべき人がベンジャミンだと気付いたデイジーは、2人の人生がちょうどクロスした時から、ベンジャミンの数奇な人生を受け継ぐことになる。若返るベンジャミンに、老いていく自身。死に向かう自分が、ベンジャミンの最期を見届けることになる。数奇な彼の最期。それを目の当たりにすることこそ、本当の「数奇な人生」なのかもしれない。

 「おくりびと」がオスカーの外国語映画賞に輝いたが、この映画も一種の「おくりびと」なのかもしれない。

2009/02/24

ミスト(Mist)

原作通りに映画化すればよかったのに

Mist2  原作とエンディングを変えた、というのがこの映画の売り。でも結果的には大失敗といってもいいのじゃないかな。エンディング以外は、フランク・ダラボン監督らしい、人間描写の素晴らしい展開だったのに、エンディングですべてオじゃんになってしまったような気がする。

 原作は、閉鎖された空間の中で起こる恐怖を描写している。何がいつ襲ってくるのか、外はどうなっているのかわからない、という恐怖に加え、そのような状況では、人はスピリチュアルなことに引き寄せられる、という恐怖。結局、人の心が一番怖いのだ。
Mist3  そして、主人公は最後まで望みを捨てず、生きようとする。結末はあえて読者に委ねて終わっている。ずるいよ、と言えばそれまでだが、もともとはモンスター物の、空想的なストーリー展開なのだから、人間の心的描写を描ききったら、エンディングは必要ないのかもしれない。が、かすかな希望を感じられる終わり方だ。

 ところが、映画では、前半から中盤までは、若干のエピソードの違いはあるにしろ、原作にほぼ忠実に、徐々に広まる恐怖感と、人間の心の怖さを描き出しているが、エンディングは全く趣が異なった。少しネタバレしてしまうが、人間への愛、生きることへの願望、といったものが無残に打ち砕かれる。いや、打ち砕かれる、というより、自ら放棄した、と言っていいかもしれない。そこに希望はない。

 ひょっとすると、「そうしてはいけない」ということをダラボン監督は言いたかったのかもしれない。それなら、エンディングを変えた意図を理解できなくはない。ただ、観賞後感は、よくない。後味が悪すぎる。映画に何を求めるか、は人によりそれぞれであろうが、万人には勧めたくない映画となってしまったことだけは、はっきり言える。原作どおりでよかったんじゃなあい?

Mist1 平時には奇人変人、異常事態では支持を集めるミス・カーモディ役のマーシャ・ゲイ・ハーデンの演技は、主人公トーマス・ジェーンを完全に食っていたね。彼女の助演は、今やスクリーン界トップクラスですね。

2009/02/21

チェンジリング(Changeling)

不条理な現実の中に光る一筋の希望

332551view006  脚本家のJ・マイケル・ストラジンスキーが、ロス市の古い文献から、2つの事件を見つけ出した。1つは、ウオルター・コリンズ少年の誘拐失踪事件、およびそれにまつわる警察の動き。そしてもう1つが、ゴードン・ノースコットによる連続児童誘拐殺人事件。後者事件犯人のノースコットは、逮捕後ウオルター少年の殺害について、認めたり否認したりと、供述を二転三転させつづけていた。ストラジンスキーはこの2つの事件をつなぎ会わせたオリジナル脚本を完成させ、ロン・ハワードに映画化を持ちかけた。一旦はハワード監督が映画化しようとしたが、他の作品に追われたため、別の監督を探し、そこで白羽の矢が立ったのがクリント・イーストウッド、とのこと。イーストウッドは、ストラジンスキーにオリジナル脚本から、コリンズ母子のエピソードを中心に据えた形に変更するよう求めて、この映画の完成に到ったそうだ。

 そんないきさつを知り、イーストウッド監督の感性に酔った。
 殺人事件が中心となり、その謎解きが映画の主点になれば、ミステリーの域を出なくなる。そうなれば、否応無しに映画のトーンは暗く、悲劇としてのエンディングが待ちかまえることになる。それはそれで、1つの映画としての完成をみるだろう。子どもを愛する母親の深い愛情と悲劇のクライマックスで、見る者は涙を流さないで入られない、そんな映画になっただろう。もっと、ドラマチックな演出をして、さらに観客の涙腺を刺激することも、また、ミステリーとしての恐怖感や緊張感をも強調することも出来ただろう。

332551view004  しかし、イーストウッド監督はそうはしない。シングル・マザーのクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)が、突然いなくなった(誘拐された)息子のウオルターを思う気持ちを前面に出し、「偽」の息子を「見つけ出した」と言い張る警察に対抗する意志の強さを表現し続ける。そして、不条理であまりに身勝手な警察の担当官を相手に、「自分の息子を探し出したい」という一点で、どんな過酷な仕打ちをも乗り越えようとする母親の強さを見せる。彼女の執念が周囲の人々を巻き込み、彼女を助けるブリーグレブ牧師(ジョン・マルコビッチ)も、ハリス弁護士も、彼女に寄って行く。さらに言えば、事件解明のきっかけを作ったヤバラ刑事が、上司の指示に従わず、ノースコットを捜査するくだりは、クリスティンの執念がヤバラ刑事に乗り移ったかのようだった。

 また、過度な演出は一切排除している。刺激的な映像は(皆無ではないが)極力抑え、坦々とストーリーを積み重ねて行く。そこにかぶさる音楽は、オーケストレーションではなく、単音を基調とした、シンプルでかつ叙情的な旋律。あくまで、シンプルに、モノクローム的映し出す映像。クリスティンの真っ赤な口紅の色だけが、画面に強く映し出される。それが、彼女の強さや執念を表すのに効果的となっている。

332551view010  ノースコット事件は、映画のストーリー展開で重要な意味を持っているが、結果的には真実を解き明かさないまま終焉を迎える。しかし、エンディングに待っていたのは、希望(hope)。ウオルターの優しい人柄を表すエピソードとともに紹介された事実は、クリスティンに希望をもたらしたのだ。息子は生きているかもしれない、いや、きっと生きているんだ、と。過酷な人生の中に、警察権力の前に、不条理な現実の中に、絶望的な状況の中に、一筋の希望が見えた。人生を生きて行く活力は、そんな微かな希望の中にも存在しているのだろう。不正がはびこっていた警察の中で、ヤバラ刑事の捜査も、ある意味、不条理社会の中の一筋の光明なのかもしれない。

 涙が流れる、というより、感動がジーンと心に染みいる作品だ。これぞ、名作と呼ぶにふさわしい。アンジーの演技はもちろん素晴らしいが、なにより、脚本家ストラジンスキー、イーストウッド監督、あっぱれ。

 映画のタイトルchangelingは、「取り換えられた子ども」と言う意味であることはすでに知られている。背景には、天使が可愛い子どもを醜い子どもに取り換える、という言い伝えがある。ならば、ウオルターと偽っていた男の子は、醜い子なの、と少し疑問。警察の悪事の片棒を担いだにしろ、彼もある意味、警察の被害者といえないだろうか。共犯者、醜い子と呼ぶにはあまりに酷すぎる。

 ところで、クリント・イーストウッドが映画を作ると、だいたい

1 過度な演出を抑え、心的描写に重きを置く
2 映画冒頭とラストの、象徴的な遠景
3 派手さのない、ピアノの旋律を中心とした音楽
4 われわれへの問いかけ、問題提起

となりますね。この映画もそう。
ただ、いつもだと、エンディングが悲劇的だったり、論争を呼んだりするんだけど、今回だけはちょっと違った。希望の残る演出だった。「息子が生きているかも」という希望。ストーリーそのものは勧善懲悪でもあり、悲劇でもあり、だけど、希望が見えるエンディングは、観賞後の気分はいい。

2009/02/14

シンデレラ・マン(Cinderella Man)

ポール・ジアマッティ、いい味出しています

Cinderellaman2  「ビューティフル・マインド」の感動を再び味わえるか、と期待して見た、ロン・ハワード監督、ラッセル・クロウ主演のこの映画。ラッセルの相手役がレニー・ゼルウイガー、とくれば期待しないではいられない。
 で、映画の主要プロットはこう。若い頃の栄光から一転、大恐慌時代に入り極貧生活へと落ちるが、再びチャンスに巡り合えて王座に返り咲く、という、ボクシングを題材にしたサクセスストーリーで、最後に試合のシーンを持ってくれば、感動しないわけがない。ストーリーは予想通り、アメリカンドリームに酔いしれることの出来るラストシーンに堪能。ネタバレもなにもない、実話を元にしているのだから。

Cinderellaman1 主人公ジェームズ・ブラドック(ラッセル・クロウ)は、家族のために、子どものミルクのために戦う。その姿はひとえに逞しい。さらに、「自分にはボクシングしかない」という、夢を諦めないひたむきさが同姓として、共感を感じざるを得ない。ボクシング・シーンは、「ロッキー」シリーズほどのリアル感はないが、スタローンほどマッチョマン風でない分、ラッセルの演技の方が個人的には好きだ。
 その妻メイ(レニー・ゼルウイガー)の、子どもと夫に捧げる愛情の深さ。表面的にはか細いが、実は芯が強い、という女性を演じさせたらレニーが一番だろう。強すぎない、弱すぎない、そんな女性。今風の女性像ではないことは確かだが、30年代頃の女性の雰囲気をよく出しているのではないだろうか。

Cinderellaman3  が、この映画を感動作たらしめたのは、主人公2人の演技はもちろんだが、トレーナー兼セコンドのジョー(ポール・ジアマッティ)の存在が大きいと思った。大恐慌で仕事にあぶれ、かつて試合をした、マジソンスクエアガーデンのボクシング関係者に援助を請う主人公ジェームズ。そこで働くジョー。ジョーはそれなりにセレブな暮らしを続けていたのか、と思いきや、そうではなかったことが明かされる。彼の家の、テーブルとイス以外家具が一つもない部屋の風景が衝撃的だった。と、同時に、そんな貧しさを見せようとしない、ある意味見えっ張り、ある意味男らしいジョーの姿が、その後のサクセスストーリーへのよいスパイスとなって効いてくる。そのジョーを、時には熱く、時には冷静に演じたポール・ジアマッティの演技は、主人公2人を超えた、と思えるほどだ。

 アメリカンドリーム的プロットであるため、人によっては予定調和的ストーリーに刺激を感じないかもしれないが、3人の演技を見るだけでも、この映画の良さがあると思う。見て損はない映画だ。

 最後に、タイトルのCinderella Manとは、主人公ブラドックの復帰戦を、それまで彼に厳しい批評を書いてきた旧知の新聞記者が書いた記事の見出しから取られている。「(ボクシング界追放、貧困から蘇った)ジェームズ・ブラドックは現代のシンデレラ・マンだ」と。

2009/02/05

ミリオン・ダラー・ベイビー(Million Dollar Baby)

イーストウッド監督、私には出来ません。

Milliondollarbaby1  クリント・イーストウッド監督、ポール・ハギス脚本、出演にヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン。アカデミー賞作品、となれば、期待せずにはいられない映画。「ミスティック・リバー」の感動が再びか、という想いで観賞。

 前半は、息もつかせぬテンポで、ストーリーは進む。女性ボクサー・マギー(ヒラリー・スワンク)と、老トレーナー・フランキーの、「疑似父娘」的な人間関係と感情が、ひしひしと伝わってくる。ともに、家族の愛情に餓えている、満たされない想いが、お互いを惹きつけ合う、という展開はわかりやすく、感情移入も自然にできた。やっぱり、これは名作だ、と思えた。特に、フランクが出し続ける娘への手紙に、決して満たされることのない家族愛が見え、心にジーンときた。マギーの母親は、ちょっとデフォルメされすぎているきらいはあるが、女性が一人でここまでストイックに戦う意味をここに見て取れた。

Milliondollarbaby2  だが、後半は、完全に予想をはずされた。ボクシングの試合での事故、そして不随の身となるマギーに、献身的に介護するフランキー。この映画は、こんな展開なの、と驚いた。前半とは打ってかわって、坦々と、悲しさだけが強調される。疑似父娘の心はさらに一つになって行き、悲劇の結末へ繋がる。
 どうしても理解できないのは、マギーが家族愛に人生に絶望して、人工呼吸器を外すことを望む中で、それはできないと拒み続けながら、最後には同意するフランキーの心境についてだ。ほぼ自分の娘といっても過言ではない関係になったマギーに対し、本人が望むといっても、死に到らしめる行為は、理解しがたい。いや、理解したくない、といったほうがいいかも知れない。完治の望みがなくとも、意識がある彼女の死を認めること、私には出来ないだろう。いや、できない、と断言したい。
 尊厳死、と言う言葉がある。延命医療を本人が望ない、という意志があれば、生命維持装置を外させ、安楽死することができる、と言う意味なのだが、果たしてこの場合は、尊厳死に当たるのか。意見の分かれるところでもあろう。私は、これを尊厳死と呼ぶことには抵抗がある。マギーの受けている治療は延命治療かもしれない。が、意識のある段階で、維持装置をはずすことは現代医療においてはやってはいけないことだろう。私はそう思う。

Milliondollarbaby3 イーストウッド監督の狙いはそこにあったことは間違いない。「あなたなら、どうするか」「あなたはどう思うのか」と私たちにこの恐ろしい質問を投げつけてきたのだ。だから、私の上記の答えは、この映画への批判ではない。批判する所ではない。彼の問いに対する答えである。そう、私たちはこの映画を見て、(言い過ぎかもしれないが)答える義務がある、と私は思う。

 最後に、モーガン・フリーマン演じるフランキーの盟友エディ。この登場人物のおかげで、第3者的視点が加わり、映画に深みを持たせてくれたことは疑いようがない。その人物に、フリーマンを配したのは、見事という他ない。

2009/02/01

チェ 39歳 別れの手紙(Che Part2 Guerrilla)

ゲバラは農民に裏切られたのではない

331776_02_01_02  チェ・ゲバラがキューバを離れ、ボリビアで革命を起こそうとゲリラ闘争を行うが、戦いは敗れ、最期を遂げてしまうまでを描く、2部作の後編。1部がサクセスストーリーなら、この2部はトラジェディ(悲劇)といえる。しかし、ソダーバーグ監督の演出は、今回も、あくまで坦々と、起伏なく、冷静だ。感動させよう、驚かせよう、という過度の演出は一切ない。

 1部と違い、ゲバラの戦略の巧みさは現れない。むしろ、読み違い、作戦ミス、そしてアメリカに指導された政府軍の戦術の巧妙さが際立ち、悲しい思いに駆られる場面が多い。邦題は「別れの手紙」と題しているが、それは盟友カストロに宛てた手紙のことである。てっきり、キューバ国民や家族へあてた手紙か、と勝手に想像していた私。感傷に浸らせるような手紙ではなかった。私の勝手な思い込みが、映画冒頭で打ち砕かれ、観賞の興味は、彼の闘争が何故失敗したか、と言う点に移る。 

331776view002  まず、はっきり書こう。彼の失敗は、農民に裏切られたことである、と書かれている解説やあらすじが多いが、私はそうではないと思う。政府軍に捕まった時、ゲバラは大佐の質問、「なぜ農民たちに裏切られたと思うか」に対し、こう答えている。

「彼らはお前たちの嘘を信じただけだ」

それに、最初にゲリラ軍の情報を政府に知らせることになった農民のことばも注目したい。それは、

「食べ物と引き換えに、(ゲリラ軍は)お金を置いて行ったが、私らにはこれを使う機会がない」

331776view005 キューバと明確に異なること、それは、キューバの農民が大地主から搾取を受け、苦しい生活を強いられていたのに対し、ボリビアの山岳地帯の農民たちは自給自足の生活で、地主や政府からの搾取という直接的な被害を受けていなかったことであろう。ボリビアの炭坑で働く坑夫たちは、自分たちの暮らしが良くならないことに不満を覚え、ゲリラ軍に加わったり、ゼネストを強行してゲリラ軍を支持する。それは、より良い生活がどんなものなのかを具体的にイメージできる環境にあり、それと比較して自分たちは虐げられていると理解できる知識があったからだ。が、首都から遠く離れ、自分たちのコミュニティの中でひっそりと暮らしている農民たちにとって、「ここに道が出来たら農作物を都会で売れるんだ」「学校が建てれるんだ」「病院が建ち、病気が治るんだ」と説得されても、その良さ、便利さを理解することはできない。政府発行のお金を積まれても、使うチャンスはない。人を疑わない彼らは、政府軍に「ゲリラ軍はお前たちを殺そうとする」と言われると、そう思わざるを得ない。

 彼は捕まった時に、1兵士に、「神を信じるか」と問われ、こう答えている。
 「私は人間を信じている」
 ゲバラは農民たちを信じた。自分たちの言葉を理解してくれると。

 残念ながら、農民たちが信じたのは、言われたことが具体的に頭の中でイメージできたことなのだ。ゲバラ率いるゲリラ軍は、農民を含めた貧しい人々のために革命を起こそうとしたことに間違いはない。しかし、彼らを味方に引き入れるにはまだ時期尚早だったのかもしれない。いかに政府が山岳地帯の農民を見捨てているのか彼らが体感できた時が、革命の時なのだろう。

 裏切られたのではない、「その時」ではなかったのだ。

 最後に、ゲバラが亡くなる、その瞬間を描いたカメラワークの秀逸さ、を書き添えておく。このエンディング、余韻を残す素晴らしい演出だ。

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