2008/09/28

再会の街で(Reign Over Me)

愛が私を支配する・・・悲しみは、分かち合える人がいて癒される
Reignoverme
 原題がReign Over Me。The Whoの1973年の名盤「四重人格」の名曲のタイトルから引用されている。フー以外にも、ブルース・スプリングスティーン、ジャクソン・ブラウンの70年代の侏儒の名作が流れる。それらにも涙しながら、鑑賞できる、素晴らしい人間ドラマ。主人公チャーリーを演じたアダム・サンドラーの好演を見逃すことは後悔に値する。多くの人に見てもらいたい作品だ。

 同時多発テロ911で妻と3人の娘の家族すべてを失った主人公チャーリー。仕事も辞め、仲良くしていた友人達からも離れ、妻の父母からも遠ざかり、1人ニューヨークのアパートで、毎夜ゲーム(PS)をして過ごす。PTSD(心的外傷後ストレス障害)であるのは間違いないが、これほどまでに心を閉ざす彼の心境とはどういうものなのか。
 それは、家族との忘れられない思い出の記憶が彼を苦しめる、ということではないか。幸せな時代を思い出せば思い出すほど苦しみが増す。ならば、忘れたらいいのか。否、である。忘れられるはずがない。だからこそ、家族と暮らしたアパートを離れない。思い出すことを避ける。ゆえに自分の家族をよく知っていた仲間たちから遠ざかる。

The Who の Love Reign Over Me(愛が私を支配する)が、彼の心を代弁している。

愛だけが雨を降らせることができる。
海岸が海にキスされるように。
愛だけが雨を降らせることができる。
大地に横たわる恋人たちの汗のように。
愛よ、僕を支配せよ。
僕の上に雨を降らせ。(拙訳)

雨は神が人々にもたらす言葉である、と言われている。天が彼に語りかけるのだ。優しく、そして辛く、雨となって語りかけるのだ。家族への愛が彼を支配する。それが、彼の心境すべてである。

Reignoverme2 彼は、何度もキッチンのリフォームをしている。妻との最後の会話が、キッチンのリフォームについての話であったからだ。彼は妻からその話を持ちかけられた時、聞こうとしなかった。その記憶も彼を苦しめる。それゆえのキッチンリフォームなのだ。忘れられない最後の会話の影響がここにも表れている。家族への愛が彼を支配しているのだ。

 そんなチャーリーの苦しみを一言で言い表した傑出の台詞がある。

 「あなたは苦しみを分かち合える人がいるからいい。」 

 法廷でチャーリーが義母に言ったこの言葉。映画「イントゥ・ザ・ワイルド」での台詞を思い出した。その言葉は「幸せは、分かち合えた時に現実となる」。結局、喜びも悲しみも、共有する相手がいてこそ、なのだ。人間はだれもが、一緒になって喜んでくれる人、一緒になって悲しみを感じてくれる人、が必要なのだ。
 チャーリーはその相手が、娘と孫を亡くした義父母でもよかったはずなのだが、彼はそれを拒んだ。家族付き合いをしていた会計士家族でもなかった。1人で苦しむことを選んでしまった。元ルームメートのアランに出会い、若いセラピストに出会い、話すことを促される。しかし同時にその行動は、愛する家族を亡くした深い悲しみに再度襲われる結果となる。彼が一番恐れていた結果だ。一旦は自暴自棄になり、銃を手にする。銃弾がみつからず、そのまま町に出て、警官に銃を向けるという、死を覚悟した行動をとる。逮捕され、精神鑑定を受け、法廷へ。
Reignoverme1 その時に発せられた言葉 「あなたは苦しみを分かち合える人がいるからいい。」 彼の辛さは、まさにその相手を求められない辛さだったのだ。

 そして、彼は変わっていく。ただし、分かち合える人を探し始めたのではないだろう。アパートを移り、部屋の雰囲気を明るくしただけだ。家族を忘れるためではない。記憶がなくなる筈はないのだから。思い出そうとしない自分ではなく、思い出しても強く生きていける気持ちを持ち始めたのだ。立ち止まらず、ほんのわずかな一歩を踏み出したに過ぎない。しかし、その一歩は大きい。そしてきっと、彼は苦しみも喜びも分かち合える人をいつか見つけるだろう。彼の視線は未来を向き始めたのだ。

 アランにも、この出来事により大きな心境の変化と、成長が見られるが、私はあえてチャーリーの心についてのみレビューした、ということを最後に付け加えておく。

2008/09/14

イントゥ・ザ・ワイルド(Into The Wild)

「幸せは、分かち合えた時に現実となる」

Intothewild1  傑作に出会った。数々の台詞に、心を動かされた。

 裕福な家庭に育った大学卒業すぐの若者が、いわゆる「自分探しの旅」に出る、という、実話を元にしたストーリー。最初は、世の中を何も知らない若者のわがままな一人旅、という印象があったが、私のお気に入り俳優ショーン・ペンが監督・脚本ならば、そんな単純なものではないはず、と思ってはいた。やはり、その通りであった。

 物欲にまみれた現代社会に疑問を持ち、大学院進学をやめ、学費をすべて慈善団体に寄付し、身分証明書を燃やして、一人旅にでた主人公クリス(エミール・ハーシュ)。名前さえも捨て、アレックス・スーパートランプ(「放浪者アレックス」)と名乗ることにする。「信念よりも、愛よりも、お金よりも、名声よりも、、、真実が欲しい」とも彼は言う。裕福な暮らしを捨ててまで、彼はなぜ旅に出たのか。

 それは、親と子の関係。
 両親の結婚までのいきさつ、自分と妹の出生の秘密などを知った時、どれほどの衝撃を受けるか。両親の不仲が、子どもたちにどれほどの苦しみを与えるか。これらは、十分に「旅に出る理由」になりうるだろう。そして、この時の子どもの心境をうまく表現した台詞が映画の後半で発せられた。

 「子は親を許せないものだ」  

 旅の途中で出会う孤独な老人ロン(ハル・ホルブルック)の台詞である。
 親は自分を生み育てた絶対的な存在だからこそ、子どもは親に完ぺきさを望んでしまうものだ。そのため、親の未完全さを目の当たりにしてしまうと、許せなくなるのではないか。この台詞には、うならされた。

 そして、突然姿を消した息子を前に、慌てる両親。その様子を、クリスの妹カリーンのモノローグが語る。その一つがこれ。

 「悲しみに直面すると、関係が修復される」

 不仲の両親が、息子失踪の事実の前で、お互いをいたわり合い始める。この時点で、クリスによる両親への抗議行動の目的は達成されたはずである。帰るべき時は、この時だっただろう。妹は既にこの時、それに気付いていた。クリスのモノローグは自分の気持ちだけを表しているが、カリーンのモノローグは自分はもとより、兄・両親の心情を巧みに描写している。モノローグが非常に効果的に使われていると感じた。

 さらに追い撃ちをかけるように、ロンの台詞も響く。

  「人を許した時、神が見える、光が見える」

 クリスは両親を許す時だったのだ。時機を逸したのだ。

 そして、様々な人と出会い、別れ、そして家族の元に帰るチャンスを逃し、クリスが北のアラスカで見つけた、人生を生きる意味とは何か。

 「幸せは、分かち合えた時に現実となる」(Happiness is only real when shared.)

Intothewild2  私は、幸せに感じる瞬間を求めて人は生きるのだ、と思う。つまり、家族や愛する人・仲間とともに、人生で幸せを求めていくことが、人生なのだ。
 クリスは、旅の途中でこう呟いていた。「人間関係が人生に必要とは限らない」。きっと、彼は最後の場面でこの言葉の間違いに気付いただろう。人は人と関わってこそ生きて行ける。人は1人では生きられない。気付いた時には、もう遅かったのだ。が、気付くことができたことで、彼はかすれゆく意識の中で、両親との再会を思い描くことができたのではないか。同時に、私たちに十分すぎるほどのメッセージを残してくれたのだ。決して、裕福な若者のわがまま一人旅映画ではない。

 最後に一言。荒野、嵐、大農場、砂漠、湖、大河、どの映像も大地の、自然の、生命の息吹が溢れていたし、パール・ジャムのエディ・ベダーによるアコースティックな音楽もストーリーに、映像に実にマッチしていた。このことも付け加えておきたい。

2008/09/09

パフューム - ある人殺しの物語 (Perfume - The Story Of A Murderer)

スクリーンから匂いが伝わってくる

Perfume この映画、犯人はわかっているので、犯人探しのプロットはない。警察などが犯人探しをどのようにすすめるか、でもない。先のストーリーが全く読めない、ラストの展開も全く予想外。南仏のグラース、ラベンター畑や岩山に作られた街。美しい景色と町並みが、美しさよりも恐怖感を増させる効果を生むとは予想だにしなかった。殺人事件なのに、どこかおとぎ話・夢物語のような雰囲気。不思議な感覚に浸った映画だ。

 映画の重要な鍵となるのは、臭い(匂い)。映像からはどうしても伝わらないもの。それをどう伝えるか、この映画の挑戦的な試みだろう。その点は、対象物のアップを多用することで表現できているのではないか。画面いっぱいに広がる対象物は、バラであったり、果物であったり、焼き立てのパン、ラベンダー畑、などなど。被害者となる女性たちの美しい肌にも接近するカメラ。不思議なことに、これらの映像が、私たちの想像力をかきたてて、臭いがしている気持ちにさせてくれるのだ。前半のグロテスクな場面も、臭気が今にも漂ってきそうだった。
 ただ、残念ながら、香水に関しては、臭いが感じられなかった。特に、誰もがひれ伏す、究極の香水の臭いとはどんなものなのか、どうしてもイメージできなかった。それは私の想像力の欠如なのか。

Perfume2  主人公のグルヌイユ、自分に体臭がなく、臭いに対して並外れた感覚を持つ。何キロも離れていても、臭いを嗅ぎつけられるというのは想像を超える。誰からも愛されず、人間としての常識を何一つ持ち得ずに育った男、という設定は、この映画〈物語)から現実感を完全に削ぐことになったと思う。ゆえに、夢物語。目的を果たすためなら何でもやるという強い意志と、手際よく抜け目なく行動する姿が見える一方、時には愚鈍で素朴な一面ものぞかせる。そんな主人公を演じたベン・ウィンショーの演技、特に目の表情が秀逸であった。

 いくつか疑問点が残ったのも確かだ。
 なぜ、あのような究極の香水を牢屋まで持って来れたのか。
 映画の最初のシーン、引きずられて大衆の前に立つ姿は最後には出てこない。あのシーンこそが現実であり、映画最後の部分はグルヌイユの夢ではないだろうか。

 そして最後は夢の中で、最初に惹きつけられたプラム売りの女性と結ばれる、そして、自分の生まれた場所にもどり、人々に愛されて消えていく。夢物語としか考えられない疑問点と結末。通常の映画の理解を越えて考える必要のある映画なのだろう。

Perfume3  最後に一点。映画作りにおいて、フランスを舞台にして、登場人物が英語で話すことにどうしても違和感を感じる。グルヌイユはあまりしゃべらないので英語であることはあまり気にならないし、ダスティ・ホフマンとアラン・リックマンは渋い演技を見せてくれてはいるが、ここはフランス語であってほしかったというのが正直な感想だ。

2008/09/06

ハンコック(Hancock)

着眼点はマル、後半は評価が割れるかも

Hancock1  ヒーローものやアクションものの映画は、やたら周りを破壊してしまうという特徴がある。カーチェイスで、何の落ち度も関係もない人たちの車が横転したり、犯人を追っかけるために一般市民の車が盗まれ、最後には破壊されてしまう。はたまた、町中で市民を巻き込んでの銃撃戦となり、建物が破壊され炎上する。しかし、悪人は倒れ、ヒーローは祝福される。そんな映画ばかりを見させられてきた。そんな映画の世界に、ハンコック登場。 犯人を捕まえ、人の命を救ってくれるスーパーヒーローなはずなのに、酒好きでキレやすく、手加減できなくて余分な被害を与えてしまうために、みんなから嫌われてしまうヒーロー。主人公をこんな設定にしてしまい、周囲の評価を真逆にしてしまうとは、見事な着眼点だ。ある意味、従来のヒーローももの映画への皮肉ともとれる。人を助けるのなら、もうちょっと方法を考えろよ、と言いたげだ。

 そんな、ユニークな設定でスタートしたこの映画、中盤まではその設定が見事に観客の興味関心のツボを押さえていく。好かれるためにはこうすべきだ、とプロデューサーがアドバイス。疑いながらもその指示に従い、ねらい通りの展開になるのに気付くハンコック。ウイル・スミスの、ちょっとだらしなく、ちょっと無頼な雰囲気が主人公のイメージとマッチ。また、どこかうさん臭さのある口達者なPRマン役のジェイソン・ベイトマンもいい味出している。その両者の掛け合いが、ストーリーにテンポを生み出して行くのだ、ハンコックが人気者になる中盤までは。

Hancock2  ところが、中盤以降、驚きの展開が待っていた。〈ネタばれしない程度に書きます) シャーリーズ・セロンのエピソードが新たな空気を映画に吹き込んだのだ。中盤までは、コメディやパロディの要素もふんだんに入るが、ここからは一転するのだ。いわゆる、通常のヒーローものへのストーリーの変化。良く言えば、1本で2つの映画が楽しめる。ハラハラ、ドキドキのアクションもの。が、悪く言えば、お決まりの結末に向かい、結局ハリウッド映画はそうなるのね、というストーリー展開。予定調和の感動ストーリー。前者と後者、どちらと考えるかは、観客の好み次第なのだろう。
 単なる超大作アクションものやヒーローものはあまり好まない私としては、新しいヒーロー像を提示してくれるような期待感を持って映画館に向かったので、やや後者よりの印象を持った。中盤までの、ちょっと皮肉めいたストーリーを、もっと丁寧に紆余曲折を経てすすめて欲しかった。3者(スミス、ベイトマン、セロン)が、1対1となる場面で、それぞれ何かを隠しながら、疑いながら台詞の掛け合いをする場面がもっとあってもよかったのではないか。なぜなら、この映画の後半の流れを決定する驚きの事実そのものが、あまりにもあっさりと語られてしまうからだ。この事実を知らせる前にもっと工夫ができたのでは、と思わざるを得ないのだ。

 ただ、エンディングでは、幸せなカップルと、設定通りの型破りでキレやすいハンコックの姿が見られ、気分よく映画館を去ることができたことは確かだ。だから評価は割れる、と思うのだ。

 最後に一言。キレやすいハンコックの一面を見せるためとはいえ、asshole(ケツの穴、クソッタレ)という猥語がポイントで何度も登場するのには、ちょっと閉口した。日本語字幕は「クズ」と表示していたが、本来はもっと過激な(下品な)言葉。

2008/09/01

ゼア・ウイル・ビー・ブラッド(There Will Be Blood)

タイトルのbloodに込められた意味を考えると、この映画が読み取れる

Therewillbeblood  主人公の石油王ダニエル・プレインビューを演じるダニエル・ディ・ルイスと、若きカリスマ牧師イーライ・サンデーを演じるポール・ダノ、この2人の演技にテーマすべてが集約されている映画だ。映画のプロットは、石油採掘を巡る一人の男の物語。彼と周りの人物がどのようにかかわってくるか。先の読めない展開と、ディルイスとダノの演技にどんどん引き込まれていった。

 私が注目したのは、なぜタイトルがThere will be blood、石油なのになぜ血なのかということ。映画を見ながら、また観賞後にいろいろ考え、調べてみた。bloodには複数の意味が込められている、すべての出来事にbloodが関わってくる、ということに気付いた。

 bloodその1=流血。
 石油採掘には多くの犠牲があった。利権を巡り、血が流れることもあった。特に映画の後半、血なまぐさい場面は登場する。私は当初、これが最も強い意味かと思ったが、観賞中の印象はノー。むしろ、カムフラージュとなっている気がする。

 bloodその2=血の力、すなわち洗礼。主(神〉より受ける血。
Therewillbeblood2  パイプライン建設のために、イーライの宗派の洗礼を受けることを要求されるプレインビュー。しかしその場で「私は罪人(sinner)。私は子どもを見捨てた」と叫ばされる。その屈辱的な行いは、彼の哲学からは許されるものではないだろう。賛美歌There is power in the bloodがバックに流れる。「あなたは悪に勝利したいか?その血には素晴らしい力がある。」と歌われる。神など信じないプレインビューが、勝利したいためだけにthe power in the bloodを受け入れる。彼は自らの利益のためなら、信仰も洗礼までも道具にする。

 bloodその3=血縁。
Therewillbeblood1  誰も信じない主人公プレインビュー、信じるのは血のつながり、family。自分の息子のみを頼りにする。生き別れした弟をすぐにパートナーに引き入れる心境は、血のつながりしか信じない彼の主義を明確に表している。
 ところが、エンディング近くでどんでん返しが待っていた。独立を願う息子に「お前は俺の子ではない、血はつながっていない」。この台詞の英語は、You have none of me in you. bloodとは一言もいっていない。この意味は完全なトリックの予感。

 しかし、さらにもう一つのエンディングが待っていた。イーライの登場だった。
 you have none of me in you.と、言ってはならない台詞を息子(養子)に言ってしまったプレインビュー。孤独しか残らぬ彼。そこへ自分の宣教に限界を感じたイーライが現れ、ビジネスパートナーを申し出る。プレインビューは洗礼の時に受けた屈辱を「私は偽預言者だ」と叫ばせるという「お返し」をする。こともあろうにプレインビューを「ブラザー」と呼んでしまったイーライ。血縁からの孤独感に自暴自棄となったプレインビューに、イーライも言ってはならない一言「ブラザー」をも言ってしまった。イーライを叩くことで、自分の道も断った主人公の最後の台詞は I'm finished 「俺は終わったよ」。

 映画鑑賞直後に調べてみた。There will be bloodという言い回しは、旧約聖書の出エジプト記にある「10の災い」から引用されていると知った。神ヤハウェが、エジプトのファラオ(王)の圧制からイスラエル民を助けるため、エジプトに災いを与えようと、弟子のモーゼにさせたことが10の災い。その一つが、「お前の棍棒を手にしなさい。それでエジプトの水の表面を叩きなさい。川、水路、池、すべての湖は血に変わるだろう。エジプト全土で、血に変わるのだ。(There will be blood everywhere in Egypt.) 」(拙訳) エジプトの生活を支えるナイル川を、「死の川」にしてしまうことで、エジプトへ打撃を与える。
 ここにもタイトルのbloodの意味が隠されているのだろう。
 bloodその4=死をもたらすものの象徴。
 プレインビューとイーライ、神への信仰という点では明らかに対極である。神はおろか、周りの者は信じず、1人でことをすすめるプレインビューは間違いなくファラオだ。しかしイーライがモーゼである、ということではない。イーライの宗派は本流とは違うThird Revelation(第3の黙示)というものであり、人々を支配下に置くことを目的とする点では、プレインビューと共通なのだ。ならば2人とも圧制をしたファラオなのではないか。彼らは、それぞれの組織(社会)で、神により周りの水をすべて血に変えられてしまい、生きるすべを断たれるのだ。イーライは衝撃的なラストシーンで、自らの偽善さをプレインビューによりあばかれてしまう。その瞬間、2人は同じ位置に立ったことを認識したはずだ。

 そして、血の川のような石油の流れる様子から、最後の意味が見える。
Therewillbeblood3  bloodその5=石油。そして欲望のメタファー。
 どす黒い血のような色をした石油、それにまつわる様々な欲望が渦巻く世界。

 イーライの遺体から静かにbloodが流れるラストシーン。そしてI'm finishedの台詞。bloodを巡る様々な糸が切れたような、印象的な映像だった。

2008/08/30

Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!(Mr.Bean's Holiday)

通じない3つの言語が織りなす妙技・・・ビーンに言葉は要らないのだ

329195_01_01_02  テレビ版全巻持っている程のMr.Bean大ファンの私。何年か前のMr.ビーンの劇場版第1作は、TVシリーズで使われたギャグの二番せんじ、ビーンが喋り過ぎ、無理やりストーリーをつなげて失敗作だった。続編はつまらなくなると言うのが相場。ならば2作目は、、、とあまり期待はしていなかった。だから、近くで劇場公開がなかったこともあり、今ごろDVD鑑賞することに。

 これが、嬉しい誤算。前作とは比べ物にならない傑作だった。

 私がそう考えるのは設定の秀逸さ。前作はビーンをアメリカに渡らせた。同じ英語圏。ところが今回はフランス。さらに、異なる3つの言語を上手く利用していた。英語を話す(というか、実際はほとんど話していない)ビーン(ローワン・アトキンソン)、フランス語を話す女優の卵サビーヌ(エマ・デュ・コーヌ)、ロシア語を話す少年ステファン(マックス・ボルドリー)。言葉では全く意志が通じない、だから表情やジェスチャーが重要になる。そして、言葉では伝わらないから、相手が何を考えているか、どうしたいのか、何を求めているのか、そして、何をしてあげればいいのか、心と心で感じ合わなければならないのだ。
329195_01_02_02  ビーンは本来、人の迷惑省みず、自分のしたいことだけにまっすぐ、そのためには手段は選ばず突き進む。その場を取り繕ったり切り抜ける感覚だけは鋭い。そんな人物なのに、ステファンを父の元に送り届ける気持ちになったのは、言葉に頼らないで気持ちを汲みとろうとした結果なのだろう。言葉が通じていたら、優しくはない、「お前は勝手に行け」と突き倒すだろう。だから、ステファンとビーンがお互い分かり合おうとするのが自然なのだ。
 ビーンはしゃべらないので、サビーヌはロシア人と勝手に思い込む。だから英語がしゃべれてもフランス語で話す。言葉が分からないビーンでも、映画撮影、女優、カンヌ映画祭に行く、それだけで彼女の気持ちを理解するのは容易だろう。(ま、ビーンが彼女の車に乗るのは不自然だし、彼女がビーンに優しく接するの理由ははっきりしないが、彼女のキュートさに免じて許そう。)ともあれ、人の言語を変えたこと、この設定が功を奏したと思う。

 この、言葉の違いも随所にコントとして使われていて、痛快だった。
 フランス語を褒められ、最後に「グラシアス」。これはスペイン語だけど本人は分かっていない。結局最後までこれで通す。(ちなみにフランス語は「メルシー」。)
 アビニョンの町で、少年とCD売り兄ちゃん、字幕では会話が成り立っているようにみえるが、ロシア語とフランス語で全くかみ合っていない。そのスキにスピーカーを拝借。その後の、オペラを口パクで演じる場面は笑いを越えて涙が出るほどだった。
 3人が出会った場面、ステファン少年がビーンにロシア語でサビーヌのことを「彼女か」と聞く。サビーヌはビーンにフランス語でステファンのことを「息子か。じゃあ結婚しているのか」と聞く。ビーンはまとめて、ウイ(yes)、と答える。2人は揃って、「やるねえ」と言う表情を見せる。

329195_02_01_02 こうした場面が、南フランスの景色や町並みとともに、映し出される。ロードムービー風な映像も、この映画に適度なテンポを加えていたと思う。異なる言語と景色、そしてストーリーがマッチしていた。それに加え、ビーンに余分なことを喋らせなかったこと、これもMr.ビーン・シリーズの原点に戻ったようで、効果的だった。

 この他、気になった点をいくつか下記に列挙。
 ハンディカメラをビーンが持って旅行するのには何か意味があるのかな、単に珍しいものを使いたがるだけかな、写した映像に何か意味があるのか、単なるギャグの道具なのか、と思いきや、カンヌ映画祭の場面でその意味が分かるようにしてあった。ちゃんと布石がうってあったんだ。

 ウイレム・デフォーの作った映画、見るからに独りよがりの映画。あれって、カンヌ映画祭は分かりにくい映画ばかりを評価している、という皮肉なのかな。

 ラストシーンで、海岸に向かう場面。(ネタばれしないで書きます。) この映像はこの映画の最高のギャグ。DVDで何度も繰り返し見てしまった。実によくできている。見事。この場面だけでも、ローワン・アトキンソンのギャグセンスが光る場面だ。

 顕彰の抽選の場面に出てきた女の子、Lily Atkinsonって、彼の娘のようだね。

 ビーン、鞄とパスポートなくして、ちゃんと戻ってきたのかな。無事にイギリスに帰れたかな。そういうことはミスタービーンでは気にしちゃダメでしょうね。

2008/08/22

グッド・シェパード(The Good Shepherd)

すべての事象が結末につながる

Goodshepherd  CIAに人生を捧げた男の苦悩を描く、3時間近い大作。キューバ危機の頃のピッグス湾事件を題材に、CIAの内部を描く社会派サスペンス・ミステリー映画だ。フランシス・フォード・コッポラ製作、ロバート・デ・ニーロ監督、と大物が名を連ねているのも魅力。
 数多い登場人物、誰もがストーリーに様々な形で関わってくる。それも非常に複雑な形で。信用と裏切り、騙しあい、かけひき。「信じられると思ったことは信じない、信じられないと思ったことが信じられる」という台詞(誰のことばだったか忘れてしまった)が全ストーリーをおおう。どの場面も後のストーリー展開に必ず絡んでくる。ちょっとでも気を抜いたらストーリーに追いつけない。ゆったりとした流れだが、内容的には忙しい映画だ。

 犯人探しのミステリーとしては、実は弱いプロット。かなり早い段階で、情報漏えい者の予想がついてしまう。主人公のエドワード(マット・ディモン)も途中で気付いた(と私は感じた) 悪意のない漏えい。ただ、その漏えいを巡って様々な駆け引きがみられるサスペンスとして見れば、よく練られた脚本だ。フレデリック教授、KGBの亡命者2人を巡る話、ソ連の諜報部員ユリシスとの微妙な関係、長官のアレン(ウイリアム・ハート)の辞任に至る展開、どれ一つ取っても一本の映画になるほどの内容だ。もっとも、あまりに詰め込みすぎたので、頭の中が整理できない、という短所はある。それが「難解な映画」とも取られるだろう。
Goodshepherd2  また、予告編では家族とCIAの職務の間で揺れ動く主人公の様子が見られるのではと感じたが、妻役のアンジェリーナ・ジョリーの登場回数が少なく、存在感も薄い。彼女を起用する意味があったのか、と疑問に思ったのは私だけだろうか。逆に親子(父と息子)の関係には考えさせられる場面がちりばめられていた。

 原題The Good Shepherdの意味は、新約聖書ヨハネ福音書10章にある次の一説を引用すると、よく分かる。長いが引用する。

「私は良い羊飼いです。私は自分の羊を知り、羊たちも私を知っている。父が私を知っていて、私が父を知っているのと同じです。そして私は羊のために自分の命を投げ打ちます。私には他の羊がいますが、私が囲っているものではありません。その羊たちも私が連れていかなければなりません。そして私の声を聞き、一つの群れ、一人の羊飼いとなります。私の父が私を愛してくれるのは、私が自分の命を投げ打つからです。それは私が再び受け継ぐためなのです。誰も私から取り去ったわけではなく、私が自ら投げうつのです。私はなげうつ権限があり、再び受け取る権限があります。この指令を私は父から受け取ったのです。」(拙訳)

 羊飼いは自分、羊は国家。エドワードは、国家のために人生を捧げる。それは、父に愛されるため。誰より父への愛情に餓えていたエドワード。故に自分が父となり、妻よりも子どもに心を注ぐ。息子は父に近づきたい一心でCIAに入ろうとする。息子の危機に気付き、彼は別の方法で辞任させるターゲットを探し(アレンのスキャンダルを極秘に探すくだり)、息子を助けようとする。羊飼いは父、羊は子どもでもあるのだ。
 そしてエドワードの父も、良き羊飼いだったのだろう。彼は国家という羊のために力を注いだにもかかわらず、疑われ、自ら命を絶つ。 そして、国家のために、エドワードは父と同じ道を歩む可能性があるのだ。彼はそれを噛みしめ、父の遺書を焼き、今日もCIAの任務につくのだ。

2008/08/19

シッコ(Sicko)

医療制度は国家の責任で行われるべきもの

Sicko1  マイケル・ムーア監督は確信犯である。取材が始まる前から、結論も目的も決まっている。納得しない人は、始めから寄せ付ける気が無い。
 この映画を、良質なドキュメンタリーと言うには少し抵抗がある。ドキュメンタリーとは、ある出来事に関してミクロの視点で取材を重ね、客観的事実を積み重ねていくことでその事象の本質を探り、問題点を浮かび上がらせ、完成した作品である。しかし、ムーア監督は、ある出来事に関して、編者の考えを立証するために取材を重ね、裏付けとなる事実・証拠を積み重ねていく。それも徹底的に被害者・弱者・非権力者の立場にたって。逆の立場の意見は紹介こそするけれど(反論するチャンスは与えるけれど)、必ず再反論する映像を再度流す。
 だから、ドキュメンタリーの手法をとってはいるが、自分の主張を強烈にアピールする映画となっている。それゆえ、彼の意見に賛同できない人にとっては、彼の手法は卑怯な方法に見える。賛同できる人には、溜飲の下がる思いで鑑賞できる。

 ならば、私はどうか。
 賛同する人間である。弱者の立場を伝えること、体制に対して批判的精神を持つことは、ジャーナリズムの本質であると考えるからだ。
 ムーア監督は始めからアメリカの医療制度には問題があり、医者と保険会社が完全にグルであると勘ぐって、取材をしている。保険がおりないために高額な手術代が払えず、事故で切断してしまった指が元に戻らなかった男性の話、過去のわずかな病歴(といえないほどものも)を申告しなかったとして保険金の支払いを拒否された女性の話など、あり得る話だなとは思った。しかし、保険会社に有利な診断をする医者に報償金が払われるシステムには驚愕した。さらに、同時テロ911のボランティアの人たちが、後遺症を持ちながらもアメリカの医療システムでは救済されないという話は衝撃的だった。追い討ちをかけるように、アメリカが批判するキューバでは、必要な医療が必要な時に受けられるという事実が知らされる。キューバだけでなく、イギリス、フランスの医療制度もアメリカとは比べ物にならないほど充実している。イギリスでは、サッチャー時代を過ぎても「ゆりかごから墓場まで」の福祉の精神は脈々と受け継がれているのだ。

Sicko2  もちろん、ムーア監督は、巧みに事実を隠している。欧州各国は十分な福祉を受けるかわりに、高い消費税(物品税)率を払っている。キューバは手厚い医療だが、社会主義国ゆえの自由のない社会と所得の低さがある。本来のドキュメンタリーならこの辺りの事実もしっかりと組み込むはずだが、ムーア監督はそんなことしない。みんな分かっていることだ、とわずかも伝えない。

 アメリカは医療選択の自由度が高い。保険の種類も自分ですべて選ぶ。銃の所有においても、「自由」が優先される。ただし、金持ちになる自由もあれば、貧困の自由もあるのだ。それをどう考えるか。ムーア監督の問題提起なのだ。そして、彼の主張はハッキリしている。善意のある一般庶民が苦しむ施策は間違っているんだ、と。医療制度は、自由に頼るのではなく、国家の責任だと。健康保険制度が必要なのだと。
 タイトルのsickoは俗語で「変質者、変態」。映画の内容に合わせれば、映画チラシにあるように、「ビョーキ」(漢字の病気、じゃな く、カタカナで書いた方が雰囲気が出る)。医療制度に関して、今の状態はアメリカ自身「ビョーキ」になっている、とうことなのだろう。

 翻って、日本。医療制度に関しては、アメリカに倣おうとする政府の魂胆がアリアリとしている。鳴り物入りで始まった介護保険制度。知らぬ間に始まった後期高齢者医療制度。何のことはない、必要な介護や医療が以前よりも十分受けられなくなってきている。その中で消費税アップの話題。そして、貧富の差の拡大。このままでは、消費税は欧州並、医療はアメリカ並、そして国民のおかれた立場はキューバ並、になってしまうのではないか。

 この映画は、アメリカ人に向けたムーア監督の異議申し立て、であるが、日本人にとっても考えさせられる内容であるのだ。

2008/08/15

幸せのレシピ(No Reservations)

予約なし? 遠慮なし? タイトルが意味深

 ドイツ映画の「マーサの幸せのレシピ」のハリウッド・リメイク版。オリジナルは見ていないので、2つを比べることなく、純粋な気持ちで鑑賞した。予告編などで、ストーリー展開もエンディングも予測の範囲内だろう。そうなると、映画の関心はおのずと、心理描写と出演者の演技で、感情移入できるかどうか、にかかる。

Noreservations1

 この映画の良い点は、キャスティングの良さだろう。
 アーロン・エッカート演じるニック、軽そうで愉快で、他人に優しく子どもが好きで、仕事の腕は確か。彼のまわりにはいつも人の輪と笑い声がする。人を引きつける魅力的な笑顔、心遣い。完ぺきな理想の男性像。いないよなあ、そんな男性。女性がほっとかないよ、なぜ独りものか。そんなニック役、アーロンにはピッタリ。
 キャサリン・ゼタ・ジョーンズ演じる主人公ケイト、仕事は完ぺき主義、誰にも気を使わない、気に入らなければ客だって言い返す。仕事に妥協はまったくない、いや、自分の意見のみを押し通す性格。怖いなあ、そんな女性。いくら美形でも男性が近寄らないのも無理はないかも。そんなケイト役、(彼女に失礼かもしれないが)キャサリンにははまり役か、と思えるほど、いきいき(?)と演じていた。
Noreservations2  アビゲイル・ブレスリンが演じるゾーイ、母親を亡くして心を閉ざしつつ、愛情を求めている。ちょっとワガママに振る舞うのも、愛情を求める姿そのもの。それでいて、妙にませているのはこの年代の女の子の特徴か。父親のいない彼女にとって、子ども目線で付き合ってくれるニックに父親を感じるのも自然な流れだろう。最初はLittle Miss Sunshineの主人公の女の子とは気付かなかった。随分スマートになり、可愛さが増した。

 ちょっと、主人公二人の人物設定があまりにも極端であるために、感情移入するには足りなかったが、ケイトが徐々に心をほぐし、ゾーイとの関係を上手く紡いでいく過程がとてもほほ笑ましかった。また、ゾーイがケイトの作る「高級料理」は食べないで、ニックの作った普通のスパゲッティをパクパク食べる場面も、そうだよね、食ってそういうものだよね、と高級食材を食べられない庶民として共感できた。見ていてホッとした気持ちにさせてくれる、heart-warmingな映画だ。

Noreservations

 タイトルNo reservationsは、reservationの意味に「予約」の他に「遠慮、心配」という意味があるので、「予約なし」または、「遠慮しないで」という意味どちらにもとれる。登場人物3人にとって人生は予想外の展開で「予約された人生ではない」し、本人と、姪と、恋人、それぞれ「遠慮しないで一緒に暮らそう」、という意味かもしれない。レストランの席の予約とかけてあることもわかる。あとでオリジナル版のタイトルを見たら、Mostly Marsha(たいていマーシャは、、)。映画としてはオリジナルの方が自然だろうが、リメイク版のタイトルはひねりがあり、意味深で面白いと感じた。

2008/08/14

ホリディ(Holiday)

ハンサムで子ども好きパパは女性の憧れか

Holiday  キャメロン・ディアス、ジュード・ロウ、ケイト・ウインスレット、ジャック・ブラックと全員主役級の役者がそろったロマンティック・コメディ。恋に破れた女性アマンダ(キャメロン)とアイリス(ケイト)が、「ホーム・エクスチェンジ」というインターネット・サイトで2週間お互いの「家」を交換する、という設定。強気のアマンダ、控えめなアイリスと性格的には真反対だけど、二人の立場がよく似ているのがポイント。ともにキャリアウーマン、それゆえに、恋に対して上手く行かない。そして、ホリデイでは別れた男のことを忘れようする。でも寂しさが時に大きく心に押し寄せる。イギリスのロンドン郊外の片田舎、ロス・ハリウッドの超高級住宅街、それぞれを「メルヘン」「セレブリティ」と憧れるのは、ないものねだりという点でも同じ。もうロマンスが訪れるしかない、という展開は、エンディングもほぼ予想がつき、観客の期待を裏切らない。意外な設定、真反対だけど実は同じ、ハッピーエンディングという点では、楽しみながら安心して見られる映画だ。そういう映画は絶対に必要だ、と思う。

Holiday2  個人的には、アイリスのエピソードに心が動いた。元脚本家の老紳士とのストーリーが微笑ましい。彼女が精神的に立ち直るきっかけ。ここが本当の見どころだと私は感じた。老紳士が薦める映画は、「すべて強い女性の登場人物が出てくるの」。映画好きを唸らせるなら、ここで映画の一覧を並べるのも面白いと思うが、あえてそうしなかったのはあくまでロマンティックなラブ・コメ路線の雰囲気を崩したくなかっただろう。通向きの映画にせず、さらっと流していくのがこの映画には向いていた。また、頑固な老紳士に、逆に自信を持たせるように援助する彼女の姿に、彼女の真の優しさを見た。こんな女性を捨てる男は、どんなヤツだ!逆に彼女の優しさを理解できたマイルズ(ジャック・ブラック)に、男の誇りだ、と思った。

Holiday1  アマンダのエピソードは、キャメロンとジュードの登場だからか、ロマンチック度が高い。アイリスの兄グラハム(ジュード)が、亡き妻との間に生まれた2人の娘を養う、という設定。イケ面がよいパパ、だなんて、女性にはたまらない存在なんだろう。出会ったその日にmake loveというのは本当のロマンスとは違うと思うが、ジュードのように相手があれだけハンサムなら仕方ないか。羨望の眼差しを向ける自分にハタと気付く。また、アマンダの行動を、陰の声が映画の予告編のように語る、アマンダにはその声が聞こえる、と言う演出は面白かった。アマンダが仕事を忘れようとしても忘れられない雰囲気をよく表しているし、コメディ度を高めている。

 最後に、イギリスの片田舎の雰囲気、ロスの華やかさの雰囲気がもっと出ていると、もっと楽しめたのかな、と言う気がした。メグ・ライアンの後継者はキャメロン・ディアスなのかな、彼女の演技の細かい部分がメグのそれと重なって見えた。でも、メグにはまだ敵わないのかな、キャメロンの演技はちょっと大げさかな。総合評価4のところ、これでちょっと減点、かな。 

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